急に背後に立たれたことに驚いて「いやです」と言ってから跡部先輩は近づいてこなくなった。
あのとき何を思ってあんなことを言ってしまったのか、今になってもよくわからない。
いつも引き連れている樺地くんのせいで、これまで意識の端にも引っ掛けたことはなかったけれど、あれほどの傍で、息がかかるほどの距離に迫って、初めて体格の差というものを感じた。
見上げるほどの長身ではないし体つきも細身には違いないのに、誤魔化しのきかないその近さは、跡部先輩を自分とはまるで違う生き物のように見せた。生き物の分類は「男」。
私は知っている。知っていた。女とは思っていなかったから、十分に知っているつもりだった。
けれどその張り紙はばりばりと破かれた。誤った認識を取り下げろと言わんばかりに。
特別何をされたわけでもない、なんの前置きも脈絡もなく、背後を取られただけ。
ただ、それは単なる後輩の一人に取るにはあまりに近しく意味の深いもので、未知の感覚に私の背中は我知らず震えた。
空気もとけるようなあの低い声で、名前を呼ばれただけで竦み上がった。
拒絶、嫌悪、恐怖、どれでもない。
一番近いのはきっと動乱。跳ね上がった心臓をコントロールできなかった。甘く見ていた自分が恥ずかしかったのだ。
生徒会室は一人分の物音しかしない。
ほかには誰もいないことを確かめて、しばらく口もきいていない背中へと近づいた。
何を告げるべきか、言葉はどれも喉で引き返す。
できる限り気配を殺し、足音もなく滑るように歩いたはずなのに、背中はクッと忍び笑いに揺れた。
「やっとか」
せわしなく動いていた生徒会長の手は止まり、キーボードを叩く音もしない。けれど背中は振り向かない。
「いやなんじゃなかったか」
意趣返しだろうが、甘んじて受けるしかない。耳にかかったあの時の声を思い出した。
「いやじゃ、ないです」
ギッと椅子が身じろぎして、ようやく顔を見せた跡部先輩は意地悪そうに笑っていた。
「知ってる」
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